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本瀧寺|歴史

開祖日照大和尚の生涯

平成二四年十一月ならびに十二月の妙見時報に掲載された記事を転載します。

開祖日照大和尚の生涯

誕生時の時代背景

開祖の幼名は直太郎といい、明治十四年(一八八一)五月二日に、野間千代松の長男として誕生された。野間家は遠くは清和天皇の末裔貞純親王の末孫である多田満仲より二十九代目にわたる名門であった。

当時の宗教の背景を展望すると、明治初めには神仏判然令が出され仏教は「廃仏毀釈」という復古主義と新国家の権力によって弾圧されていった。政府は神社に社格を定め、官国弊社の職員を神職として優遇した。まもなく僧侶は《肉食、妻帯、有髪の禁》が解かれ、その年に本門仏立講の長松白扇は在家仏教の創始者として立ち、既存の宗教秩序をおびやかすとして弾圧された。また明治十三年には田中智学が、幕藩体制の枠内に安住する宗門の在り方を批判し、生活に直結した信仰を求める在家中心の宗教運動を行い「蓮華会」を組織して布教を始めた。この頃から在家仏教運動が各地で盛んになっていった。

祖父佐市郎と開祖

当時の能勢妙見山の本滝は修行の行場として盛んであった。直太郎の祖父の野間佐市郎は、野間の荘の地侍として生い立ち、長ずるに及んで篤く本瀧の守護神常富さまを信仰し、日々本滝にて水行して男の孫が授かることを念じ、また修行にきていた長松白扇や天理教開祖の中山みき等と語り合いますます信仰の度を加えていった。

時に明治十四年の五月二日の早暁、めでたく男の子が生まれた。「これこそ常富さまの申し子だ」と祖父佐市郎は天にも昇る心地で喜び、《直太郎》と命名しひたすら成人を乞い願ったのであった。当時の野間家は廃藩置県の嵐をうけ、武士としての扶持米も無く僅かな田畑の耕作に頼っての決して豊かな生活ではなかった。それだけに《野間家再興》を直太郎にかける祖父の期待は大きかった。

少・青年時代の開祖

少年時代の開祖は学校の成績は群を抜き卒業後の大阪府の試験も優秀な成績であった。その頃から祖父と共に《常富さま》のお給仕の当番として本滝へ奉仕に登るようになった。父の千代松は妻を早く失った淋しさから家事を省みずにいたため、野間家は祖父の佐市郎と小学校を卒業したばかりの直太郎の双肩にかかっていた。青年期には家計のやり練りのため、種々様々な業務について一家を支えた。明治三十六年に祖父佐市郎が世を去り、翌年の日露戦争の頃から直太郎は東郷村の収入役に就任、その後、保険の代理業や物産の仲介業等も経験した。

開祖の願いと一大決心

明治四十一年、二十八才にして吉岡清助氏の長女イマ女と結婚、二年後に男子出生、要人(かなめ=宗祖秀泉大和尚)と名付けられた。その翌年(四十四年)一大決心の末、六月に本滝口の自家を離れ現在の本滝に移され、宗教界に身を投じての活躍が始まった。

大正三年に滝の水源地やその周辺の改築を京都の人々と《淳善会》を組織して着手~その後に本滝周辺の所有権をめぐって問題がおこったが、野間中からの買収の計画をすすめ外護を得て実現し、直太郎は正式に仏門に入る事となった。

入門したのは天台宗の修験道(吉野金峯山寺)で、大正八年に《日照》と改名し、天台宗修験道第五部事務支局を本滝に置き常に本滝で修行を重ねる人々を徒弟として養成された。

開祖の苦難と偉業

徒弟の養成と並行して寺院としての公称を得るため当時吉野にあった無檀無禄の天台宗薫香院の名義を本瀧に移転することになったが、能勢地方は慶長年間より領主の権力によって法華(日蓮宗)に改宗を命じられた土地柄であったため、日蓮宗の勢力圏に天台宗を持ち込むというので周囲から大反対が起き強い抵抗を受けることになり、開祖の苦難は数年に及んだ。しかし大正十年六月、日照上人四十一才の時に移転認可の大願が成就した。大正十五年十月に薫香院を本瀧寺と改名、本堂建立の悲願もやっと叶えられ昭和十年に落成を見るに至った。

本滝に居を移して以来、大願成就のため毎年極寒に早朝より山頂に登り読経三昧の祈りを込められた。昭和十七年十二月四日に開祖は新しい宗の成立を夢見て六十二才で遷化された。


本山の沿革

およそ千二百五十年前、当山を「野間の高嶽(のまのたかたけ)」または「東の高嶽」と呼ばれていた頃、僧行基がこの山を拓き、霊所として一寺を建立し、「爲楽山大空寺(いらくさんだいくうじ)」と称していました。

山の北側の中腹に落下する、一条の滝を拓いて水行の道場、精神錬磨の最適の行場と定め、以来、その滝を「行儀(ぎょうぎ)の滝」と呼ばれるようになったと伝えられています。

当山には次のような伝説もあります。

野間中の字「フルノ」という所に、大きさ手まりほどの星が天降(あまくだ)り、村民達が恐れて巫女(みこ)の口を借りて尋ねたところ、

『我は北辰(ほくしん)大菩薩なり。国土守護のためこの地に降りた。清浄な地に移し、一心に祈念すれば、諸願成就せしめん』

このようなお告げに村民は喜び、早速、東の高嶽にこれを勧請しお祀(まつ)りした。 その星の天降ったといわれる所は、稲地の「元妙見」で、お堂が建てられ、代々平田姓が守っておられます。


爲楽山大空寺は、一時は隆盛でしたが、元亀 天正のころには、戦乱の世となり、寺は衰微し、荒廃しました。天正九年(1582)時の領主能勢頼次(のせよりつぐ)は、外襲を防ぐため、この寺を改造し、城構(じょうこう)としました。

慶長六年(1601)頼次は日蓮宗に帰依し、京都の本満寺(ほんまんじ)十三世日乾(にちけん)上人を請い、領内改宗を行い、 そのとき頼次の遠祖、多田満仲公の邸内に祀られていた「鎮宅霊符神(ちんたくれいふじん)をここに移し、日乾上人がそれを「妙見大士」として法華勧請して、城の守護神としました。

日乾上人は滝を改修し、行基菩薩の芳蹟を尊重するとともに、法華の行場として大衆教化(きょうげ)にあたり、この山の守護神として「宇迦の御魂(うがのみたま)」(権化常富菩薩)を勧請し、以来その霊験はますます加わり、「能勢の本滝(ほんたき)」と呼ばれるようになりました。


日照上人の業績

この本瀧(当時寺号はなく、ほんたき または こうたき と呼ばれていた)を、ただ行場としてだけでは、行基菩薩や日乾上人の真の精神には徹しないので、此所(ここ)に寺院を建て、宗理に依る精神教養と行態とを、平行させねばならないと決意されたのが、野間日照上人でありました。

時に日照上人は天台宗修験道に属され、大正十年六月に大和方面より熏香院という寺を本滝に移転する許可を得て、いよいよ寺院建設に着手することが可能になりました。

巌(いわ)を砕き山を拓いての境内の大拡張、本殿や庫裏(くり)の新築、日照上人は私財をなげうち、また信徒や外護者(げごしゃ)の協力を受け、幾多の困難を乗り越え、心血を注ぎ、法の為に一身を抛(なげう)つ決心での大事業でありました。

大正十五年十一月には、熏香院を「本瀧寺(ほんたきじ)」と改称し、その間も大工事は進み、本殿の落成を見たのは、昭和十年でありました。

本滝に居を移して以来、この大願達成のため、毎年極寒(ごっかん)には毎朝二時に山頂に登り、読経三昧(ざんまい)の祈りを込める行を、死の前年まで続けられました。

落成した本瀧寺は、天台宗の修験道大本山金峰山寺(きんぶせんじ)に属していましたが、日照上人はその後、なんとか自分の理念に叶った一宗派の制定を望みつつ、昭和十七年十二月四日、遷化(せんげ)されました。