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本瀧寺|妙見宗

妙見宗の成立

戦後の新憲法のもと、昭和二十一年十二月十日、先徳(せんとく)日照上人の意を受け継ぎ、新しく『妙見宗』を創立されました。

本瀧寺は妙見宗の総本山として、全国各地に百カ所以上の妙見宗所属の寺院・教会・布教所を有し、所属教師信徒が一体となり、宿院の建設、宗務本庁、駐車場の拡張、妙見廟や行場の新設、本殿大屋根の改修等の事業が行われ、開宗五十周年記念事業として、書院・本坊を改築して新たに大講堂・書院が完成しました。平成十八年十一月二日には開祖の遺徳を偲んで、開祖供養塔を建立し、開祖大法要が盛大に営まれました。


妙見宗改宗の理由と目的

本瀧寺が「妙見宗」という新しい宗派を設立した大きな理由と目的は二つあります。

ひとつはこの「本滝」の地が、行基菩薩が開かれて以来、当時の山岳宗教から真言宗となり、江戸中期に入って日蓮宗に代わり、日照上人によって天台宗に属するようになり、吉野山系の修験道へと変遷してきたので、肝心の教旨が定まらず、信仰の道に迷いや障礙(しょうげ)が生じ、教線が伸びないためです。

もうひとつは、当山のご本尊である、妙見大菩薩・常富大菩薩はじめ、ご縁のある神々の霊力を信じ、ご祈祷(利益信仰)と衆生済度(しゅじょうさいど)とは、相対する車の両輪のようなものとの見地から、今までの既成宗派の枠内の教えでは満足できないからということなのです。


宗名について

「妙見宗」という名は、普通の考えでは所在地が妙見山で本尊の妙見菩薩とあわせて、この名がついたと思われますが、ただそれだけではありません。

【妙】とは、人間の言葉や動作ではとうてい表現できない境地をいいます。たとえば、宇宙の威力が万物を創造し、しかも各個に本能を与えて各方面に分布している現象。微粒子や、原子のまたその奥を構成しているものの存在。生きとし生けるものの精神と生命。現在の科学ではとうてい解明することのできない現象や存在をいいます。

【見】とは、その不可思議な力が活動したときの結果、すなわち「あらわれ」のことをいい、易学では「陰を離れるを見という」と説いています。

目に見える見えないを問わず、宇宙の万象はみな「妙」の存在で、その本体はすべてが「見」の裏付けから成り立っているという、神秘的な哲理(妙法)を信じて、正しくこれを示そうとする理想を掲げ、「妙見宗」と名付けられました。


妙見宗のご本尊

わが宗のご本尊は、法華経をお説きになったお釈迦さま(または法華曼荼羅)を中心に脇本尊として、妙見大菩薩と常富大菩薩をお祀りしています。

妙見大菩薩

伝来時

妙見様は、星の信仰から生まれた神様として、古くから仏教のみならず道教・儒教・神道においても崇拝されてきました。

仏教の伝来と共に日本に伝わった「七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経」というお経の中に、次のように説かれています。

「我れ北辰菩薩、名付けて妙見という。今神呪を説いて諸々の国土を護らん。所作甚だ奇特なり。故に妙見という……」

我が国では古くは、朝廷や天皇家において国土守護の神・運命を司る神・また眼病平癒(がんびょうへいゆ)の神として、そのご祈祷の本尊として、妙見法・北辰法等の祈祷が修法されてきました。

その一方で古くから庶民の間にも、妙見様の信仰は広まり、その霊験談が「日本霊異記」や「今昔物語」に記されています。

中世以降

さらに中世になると、その信仰は全国にひろがり、江戸時代までに二百三十を越える、寺院や神社の妙見堂がありました。

武士には武運長久の守護神として、庶民には開運・商売繁盛・海上安全・眼病平癒・安産成就の神として、また関東地方を中心に馬匹(まびき)の神・芸能上達の神としても崇められ、ことに日蓮宗では檀林(だんりん)(僧侶の学校)の本尊として、学問の神さまとして広く信仰されてきました。

明治維新の神仏分離策によって、神道では神としての本地(ほんぢ)(根本の姿)が明らかでないとの理由で圧迫を受け衰微してゆきましたが、ただ仏教寺院、ことに能勢妙見山における、妙見信仰は、江戸時代からの盛況を受け継ぎ、今日に至っています。

妙見菩薩のお姿

妙見菩薩のお姿は、古くから仏教系のものや、道教系のもの・神道系のものがあり、多種多様ですが、能勢妙見山の妙見菩薩のお姿は、江戸中期に日蓮宗の日乾上人によって法華勧請されたものです。(本山の沿革参照)

その形像は、鎧を着た武者姿の座像で、右手に太刀を持ち、左手は法印を結び、憤怒の顔は忍辱折伏行化を表現したもので、きざまれた当初は太刀を真っ向に振り上げていたのを、後世になって受太刀(うけたち)(真横)にされたといわれています。妙見宗本山にお祀りされている妙見様も、同じ形像のものです。

妙見大菩薩

本山守護の本尊、常富大菩薩は江戸中期に日乾上人が本滝のそばに「宇迦の御魂(うかのみたま)」(陀吉尼天)として勧請された神さまです。

常富様には次のような伝説があります。

京都洛北の常照寺(通称が鷹峰(たかがみね)妙見)は江戸時代には日蓮宗の僧侶の学校である鷹峰檀林がありました。

亨保年間のこと、学寮に智湧(ちゆう)という年老いた学僧がおりましたが、当時山内にしばしば奇瑞(きずい)(不思議な出来事)がおこり噂となり、日頃から何かと常任と異なる智湧をいぶかった、学頭の空妙院日善上人が、ある夜その部屋を覗いたところ、一匹の白狐が一心に勉強していました。

すがたを見られた白狐はやむなく檀林を去り摂津の国、能勢妙見山に登って常富惣五郎と自称し修行を重ねられた。

檀林を去るに際して、首座(しゅざ)(学長)あてに起請文(きしょうもん)と道切請文(どうぎりしょうもん)(退学届)とを書いて残され、その末文には狐の爪の印が押されており、常照寺の霊宝として保存されています。

日乾上人によって「宇迦の御魂」として祀られたのは、この神通自在の霊狐で陀吉尼天の應神として、本瀧寺山内擁護の守護神「常富大菩薩」となられたのです。

本瀧寺では、毎年寒の入りにこの御魂を金色の御輿に乗せて滝上の竜王窟に遷座し、節分の日に再び本堂にお迎えする行事が、古式ゆたかに行われています。

常富様のお姿は、白髪を肩まで垂らし、白く長い顎髭を生やされ白の法衣姿で右手に杖、左手に宝珠を持ち、岩の上に立たれています。